本を読まなくなって気づいたこと

最近つとに技術書以外を読まなくなって「大丈夫? 人生楽しくないの?」と本気で心配されたわけです。
「いや、大丈夫。楽しいよ」
割合本を読まなくなることで気づくことも多いのです。


(1)本は趣味の一つ
わりと気づいている人も多いと思いますが、読書は趣味の一つです。
読書と同様に面白いことも、1つや2つやぐらいは転がっているものです。


(2)人の言葉が本当に身にしみるのは同じ畑で苦労したとき
スティーブ・ジョブズの歴史的なスピーチに僕も感化された人間だから分かるんですが、わりと人はエッセイの中で、人に共感させる言葉というものを使います。しかも本当に感動的であっさりと「うん。そうだよね」と頷きたくなるものです。それは誰が書いても同じことなのですが、その言葉に本当に込められた意味というのは、同じ立場(具体的に言えばピンチ)に立ったときに「もうダメだ〜」という経験をした(もしくはしている途中)にこそ光るのではないでしょうか。
マーケティングの神様の言葉が光るのはマーケティングをしている途中。プログラマーの達人の言葉が身にしみるのは同じ言語で1行でもコードを書き上げた後。医師の言葉に頷けるのは誰かの命を救ったとき。
だから、経験の浅い学生の僕らにはまだまだエッセイの真髄が見えていないのではないかなぁ。とふと思いました。


(3)本は誰かの「言葉」を読んでいるということ
 僕は趣味でプログラムを組んでいる男ですが、最近ようやくネットには載っていないレベルの問題にぶち当たることがありました。(多分、手軽に手に入る本にも書いていないでしょう。)
そういうときに「このコードを問題だと認識している人は誰かいないものか」と思うのは当然の理でしょう。
別に答えが聞けなくてもいいのです。こういう問題があるんだぞ、ということを認識している人の声が聞きたいだけなんです。(まぁあまつさえ答えが聞ければそれが一番いいんですが)
こういう気持ちになったのは、生まれて初めてだったので驚きました。
身の回りの人にはちょっと見えていないことの共感(?)。現実問題として、本と言うのはそういう役割を果たしているんじゃないでしょうか?
今度、プラグラマーのエッセイでもあさってみるかな。


(4)発想源として
本はわりと手軽な発想源ですね。
人は人生の多くの部分を模倣ですごしているそうです。多くはそれまでに得た知識の組み合わせ、自分で0から新しく生み出したと思っても「いつか見た景色」を振り切れることはほとんどないそうです(これも受け売り)。
だから色々なことを体験したり見聞を広めることが大切になってくるわけです(例えば、C言語とHaskelを組み合わせればそれは「新しい言語」でしょう。でも両言語を知らなければ生まれない)。
でもその中で、本は「文字だからこそ」、「2次元だからこそ」、現実(テレビや演劇など)を超越するような発想を得やすい媒体です。これはコストパフォーマンスが高いな、と思います。


(5)一回りして
本を読むことって面白い!
でも、それは人と競うことではないんだよな。別に何千冊を読もうとも1つの体験に凌駕されることもあれば、凡百の言葉が一人の天才の言葉に届かないこともある。そして、1人で全ての本を読みきれるわけがない。僕らはこの世にある発行物を網羅することは絶対にできないわけです。
この点が大事で、友人に尊敬する漫画オタクが一人いますが、彼さえも読んでいない漫画のストックは僕にもいくつかあるわけです。だから読書の世界では「勝者」は基本的に成り立たない。自分が読んで、でもあいつが読んでない本は絶対にあります。
誰もが敗者であり、勝者な感じです。
結局のところ本を読むことは自分を作っていくことではないのか、と思ったりします。他人の言葉がみっしりと詰まっていて、他の媒体よりも自由度の高いコミュニケーションし、自分の世界を身に着けていく、単なる趣味。
それが読書なのではないかな、と最近は思ったりしています。